線路へのバラスト(砂利や砕石)敷設風景
今回のプロジェクトの実施母体は、インド鉄道省傘下の貨物専用鉄道公社であるDFC公社(Dedicated Freight Corridor Corporation of India Limited)である。そして契約金額合計3,500億円超の軌道・電化・信号・通信工事を落札したのは、日本の総合商社である双日株式会社(以下、双日)とインド最大の建設系総合エンジニアリング会社であるLarsen & Toubro Limited(以下、L&T)によるコンソーシアムだった。その経緯を双日のプロジェクト担当である木山庚氏に聞いた。
「今回のプロジェクトは、政府が円借款の実施を決定した2008年直後から検討を進めていました。リーマンショック直後で、社内ではリスクが高いという指摘もありましたが、新たなビジネスチャンスと捉え、チャレンジしました。パートナーであるL&Tとの密なコミュニケーション、相互の役割を最大限に発揮、受注に向けた戦略分析、応札前の周到な準備など、主体的に動いたことが功を奏しました。いい意味で商社らしくない、ディープな部分までインドに入り込んだことが、競合入札での優位につながったと思います」(木山氏)
双日とL&Tのコンソーシアムは2013年に落札。その後、サプライヤーを決めていく作業に入った。「STEP」案件であることから、軌道(鉄道線路)や電化(電線、変圧器)、信号、通信などの製品調達に関して、各分野の日本企業へ打診された。言うまでもなく、電化の要であるトロリ線を有する住友電工グループにも声がかかった。
2014年5月、加藤景が海外営業部 環境・エネルギー営業チーム(現エネルギーソリューション営業部)に異動してきた。入社以来6年間、国内向け営業で鉄道事業に携わってきた知見を買われての抜擢だった。ミッションはインドプロジェクトにおけるトロリ線の受注である。加藤は、双日に対する製品提案や見積り提出、L&Tに対しては過去の鉄道事業の実績や価格などの提案活動を進めていった。そして2015年2月、L&Tとのミーティングに臨むため、初めてインドの地に立った。
「初めてのインド。パワフルでエキサイティングなデリーの街に圧倒されました。また今回のビジネスは国内とは比較にならない規模です。インドという環境と手がけることの大きさに胸が高鳴ったのを覚えています。ただ、相対するのが外国企業であること、インドのビジネスがどういうものか知らないことに、若干の不安もありました」(加藤)
その不安は、後に、実際の交渉の場で現実のものとなる。
加藤ら日本サイドと緊密に連携したのが、住友電工グループのインド現地法人であるSETI(SEI TRADING INDIA PVT. LTD.)だ。銅線を中心に住友電工グループの製品をインド国内に供給する販売会社である。2015年7月に入社したのが、20年以上にわたり現地企業で銅やアルミの営業活動に携わってきた銅のスペシャリスト、ハルデッシュ・グプタである。ミッションは、インド市場での拡販に加え、加藤同様、トロリ線の受注であり、インド人として、交渉の任を担うこととなった。
「私の役割は、インドのL&Tと日本の住友電工グループの架け橋。交渉の場で情報収集を進めることと、何かしらの齟齬や問題が生じた時の折衝を担いました。インドのローカル同士の会話は、交渉を円滑に進めるために不可欠です。大切にしたのは、相手の発言の真意を汲み取ると同時に、住友電工グループに対する興味を持続させること。信頼関係を醸成するのが自分の役割と自覚し、正々堂々と対応することを心がけました」(ハルデッシュ)
ハルデッシュの入社から1カ月遅れで、SETIの社長に着任したのが木下貫である。一貫して海外営業畑を歩いてきた。文字通り、世界を股にかけて友電工グループのグローバルビジネスを前線で牽引してきた一人だ。
「自社製品に対する絶対の信頼と誇り。それが私の基本ポリシーです。このプロジェクトでも、それが支えであり前進する力だったと思います。今回のプロジェクトは膨大な量のトロリ線納入であり、それは“地図に残る仕事”。大きな責任感と高揚感のなかで、受注に向けた活動を進めました」(木下)
加藤、ハルデッシュ、木下は、L&Tとの契約交渉に臨んだ。価格はいずれの商取引においても重要な要素だが、インドでは勝手が違った。欧米や日本などでは、高い品質・技術に対して相応の評価で価格交渉を妥結するが、インドでは、取引量が膨大なため、品質と価格は必ずしも連動するものではなかった。「徹底した価格引き下げの要請」(ハルデッシュ)は、一度や二度ではなかったのである。加藤もハルデッシュも、唖然とする場面が少なくなかった。佳境に入ったのは2016年秋。どの電線メーカーが落札するか、まったく予断を許さないなかで、度重なる交渉に加藤も木下も、疲労の色を濃くしていった。先方に対して、「NO」という言葉が木下の口癖になっていたのもこの時期だった。焦燥と緊張の日々が続いた。そのようななかでも、加藤は、日本流ともいえる丁寧で真摯な交渉を進め、粘り強く両者の着地点を見出す作業を続けていった。しかし、最後の最後に来て、新たな課題に直面した。