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ケノーシャの思い出
入社7年目の1973年に米国シカゴに赴任しました。降り立ったオヘア空港の巨大さに圧倒され、シアーズ・タワー※の威容に驚愕しながらも、「この国で切削工具の販路を開拓するぞ」と武者震いしたことを覚えています。
しかし仕事は、「海外駐在」という言葉から想像されるイメージとは違って、自分で車を運転し、見かけた町工場に片っ端から飛び込んで実演販売するキャラバンセールスでした。まだ日本製品にあまり良いイメージがない時代で、かつ第二次大戦による反日感情もかなり残っており、なかなか注文が取れませんでした。
シカゴから車でミシガン湖沿いに北上すると、1時間ぐらいでケノーシャという町に着きます。そこにあった自動車メーカーA社でも、最初の1年間はまったく相手にしてもらえませんでした。購買担当者は、大戦で日本軍と戦った人でした。
しかし、めげずに通ううちに、彼から「Mike!」とニックネームで呼ばれるようになりました。「お前の親たちとは戦ったが、お前には関係ないことだ」などと話してくれるようになり、少しずつ注文ももらえるようになりました。
そんなある日、彼に「オレはもうリタイヤする。今日は飲もう」と誘われました。バーに入ると「Mike, how old are you ? 年齢の数だけジントニックを飲め!」ときました。「よし」とばかり、出てきたグラスをすべて空けますと、「OK。では明朝8時に来い」、と。
翌朝、ズキズキする頭を押さえながら訪ねたオフィスで、彼は会社人生最後の仕事として、私に500ドルの注文をくれたのです。決して大きな金額ではありませんでしたが、彼の気持ちが伝わってきました。
言葉、文化、考え方は違っても、人間は根っこのところでは同じ。――― 私の「ダイバーシティ原体験」のエピソードの一つであります。